黄昏のアペリティフ Twilight aperitif

僕は理解した。僕を身動きできない窮地に追い込んだ苦悩の想いだけが、真に僕から追っ払われるべき厄介物の総てだったわけじゃなかった。逆に言えば失ったなかにも僕以外の人間が見れば金縁仕上げの宝箱にしまっておきたくなるような考えだってあったかもしれないのさ。だから同時に、食べられずにある想念のなかにも、さまざまな汚らわしさは犇めいていたのさ。そして今しもそれらが煙の渦の前に沸き上がろうとしていた。必要なものに絡みついた不要なものが退治されようとしていたからだ。僕に何かへの執着があったなどと思わないでくれ。もう虚無が何であるかを意識する気もしないほど僕はすっかり無気力になっていたんだから。

けれど正直な話、僕は動悸がしはじめた。束の間の静寂が失われつつあった。家の屋根のずっと高みにある夜空から電子銃みたいな鈍い音を放って、白雲が全身をビュンビュン撃ち抜くのを感じた。胸から腹から背中から僕はもう傷だらけになり、押し寄せる音の洪水のなかで必死に喘ぐしかなかった。煙の手は回転するようにうごめいて僕の耳に轟音をぶつけた。その手が一回一回開閉するたびに、僕は新たなる『囁く者』の声を聞いた。くぐもった聞きづらい声は、衝撃的な痛みを肉体に負わせ絶対的な要求を投げつけていた。「もっと食わせろ、楽にしてやる。もっと食わせろ、楽にしてやる」

だがお前、恐ろしがるには及ばない。僕はさっき、この経験を素敵なものだと口走ったはずだ。それを覚えているなら、お前は早晩この話にちょっとしたハッピーエンドが来ることを知っていることになる。

自分が自分であることを自覚させる唯一のものが今や根こそぎ横取りされようとしていた。脱け殻になりつつある肉体が痛みの感覚を鮮やかに所有しつづけようとするのは何故か。そこにはまだ物理的にも神経というものが作動していて、精神と結託し時間に蝕まれるだけの置物になるのを避けようとしてたってことだろうよ。時には迷いの元でもある名状しがたきものも、無意識に人間であることを自覚した脳は捨てたくないのさ。詰まらぬ抗戦状態に入ったせいで苦痛がいやましたんだ。微かな意識のなかで僕は建設的に考えようとした。実際のところ何が起きているのか見極めようとした。

不意に何やら白昼の光が立ち込める空間が開けた。僕は正直、薄暗い部屋でいつもの如く心行くまでぼんやりとプカプカやっていようと決め込んでいて、自分が現にそうしていることをきちんとわきまえていた。ま、それもたちどころに沸いた苦痛についえる寸前だったがね。

ともかくも今や、観念的には別個の場所に躍り出たようだったのだ。肉体を投げ出した屋根のうえにもまだたっぷりとした月の支配圏が広がっていて、ロマンや恐怖や異様を掻き立てる闇が垂れ込めていることは分かっていた。しかし、僕の見るものはもはや夜のそれではなく、鮮やかな太陽光の下で事物がくっきりとその形を曝している磯の岩だったり、釣り竿だったり海原の船体だったりするわけだ。

船は、客船なのか貨物船なのか定かではない。そのどちらでもあるようだし、違うようでもある。一隻かもしれないし複数が湾岸の泊地を拠点に往還しているのかもしれない。それらはあるときには目を射るほど強烈に錆色を見せつけたかと思うとすぐにも儚い白塗りの背景のなかの灰色の線のようになる。だから、視覚を弄ぼうとして浮き上がったり沈んだりする彩りの気儘な変化を、一々ひとつの船のものか複数の船のそれかと判別する気にはなれない。

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