美しく醜悪なひとつの構成物が遡及不能な経路を辿って立ち現れるとき、それらが決してとどまらない漂流物として目の前を掠めていくとき、僕ははたと歩みを止められ追いすがるように鑑賞せずにはいられない。
過ぎ去るものは変身の技を身に着け、千変万化する途上にあってなお悔悟と愛執をちらつかせて、容赦ない足蹴を残しながら疾駆する。
我々は誰しも現在を所有することは出来ない。未来を慮るとしても幻想的な親しみ程度の感覚しか、そこからは見いだせない。過去はもっと巧みに無責任さを隠匿して、日毎の歩みに斜視を投げつづける。
なにゆえにお前は過去を繙くのか。
虚しさが引き連れてくるからか。
思念の冒険が照合という形をとって経験に刺激を加味するせいか。
或いは骨董的事象が華々しく足踏みして鑑賞眼を振り向かせるためか。
単純に検証するのなら僕も容認しよう。だがお前、今の不調を満たすためになら、過去に生きるのはお止め。そんなことほど審美眼からも程遠い低級な趣味はない。自己憐憫と虚無とが習慣性の徒党を組んで増幅されるだけだ。見かけほども清々しくない癖を持っていると、人は煙たがるだろうさ。

自然が与える役目を無邪気にこなしてみればいいさ。
大したことを成せないからといって気負う必要があるかい? 生きているそのことがもう、大したことなんだぜ。そうさ、辛いときほど忘れていた偉業が思い出されるだろうよ。
時には、趣味に合わないが社会に役立つとされることに物理的拘束を受け、朝に夕に専心してみるのもいいさ。
なに、僕は僕なりにそうしているよ。お前が振り返るとき僕はいつでもここにいる。すこぶる快適に宇宙と関わり、きらめくような精神世界を流れている。眺めのいい、天窓の部屋でね。
もしお前が、僕の劇的な経験を目に見える具体的なドラマとして思い描くことが出来ないとしても、それは僕のせいじゃない。まだまだある経験のうちの素敵な部類に入る小さな話を、僕はせがまれ誠実に披露したまでのことだ。
