黄昏のアペリティフ Twilight aperitif

自由であることの不自由を感じない者は数少ないだろう。その基準が審美的価値にそぐわないものでも、多くの者は氾濫した情報が描きだすところの尺度に収まろうとして、懸命に一般的背景をまとおうとする。持って生まれた脳の資質を最大限に活用している人間がどれほどいるかい? 喧騒と忙殺状態のなかで貪欲に走りつづける人間の、いったい誰が、多様性あるおのが資質を尊重して顧みるということをしているかい。

忙しさに慣れた人間は静かな瞑想を恐れる。

多少の孤独に身を曝す機会を毛嫌いする。

ルーレットのように日々を回転しながら愛用の靴をすり減らすことに親しんだ者は、手痛い経験を投げつけられでもしない限り、潮騒の浜に佇むひとりのときを容認したがらない。

孤独には、まるで世間から爪弾きされたみたいな疎外感が潜むものだ。底無しの危険に立ち向かうには勇気がいる。いいさ。僕は何も、総ての人にさすらい人になれと言っているのではない。

人は創造性を試すよう生まれついてもいる。それもまた貴重な資質なのだから、世の中をより平穏に動かすためにも尊重されて然るべきだ。

だが、自己との対話を避けて通ろうする人間を僕は気の毒に思う。或いは周囲に迎合することで歳月を費やし、確実に疲れていきながらその原因を改めようともしない、ずれた人間を憐れに思う。

自己の探究を神経質に押し進めると悲惨な結果を招きかねないとはいえ、人生に対する回避しがたい問題を誤魔化して通ろうとする人間にはやりきれない。どっちにしたって手を打たなければ破滅の危険があるからだ。繊細さを許さない生活環境すらある。そこに住まうことを余儀なくされた精神は、まさに自然さを阻まれた幽閉牢の奴隷だ。想像しただけで胸苦しくなる。

いずれにしても僕は、図らずも再会した過去の想念を放棄した。もちろん、一口に過去の想念と言ってしまうのが、この際正しくないことくらい分かっている。

そこには、昔僕のものだった感受性の数々が誰のものでもない形で放置されていて、明らかに記憶を繙いたとき初めて小さなエピソードと一緒に存在性をアピールする一過性の思い出や、例えば心の平和とか充足感とか憂鬱とか呼ばれる脳内の永続性のある感覚的要素と混在を成していたからだ。

人間であるなら、決して手放せない感応力が犇めいていたのだ。

だから一度なりとも取り戻そうと考えたのさ。

ではここにこうして考察を巡らせる僕は、盗まれた自らの想念を目の当たりにして、本当のところ何を放棄したというのか。また、それにより自己の歴史はどうなったというのか。

説得力があるかどうかは分からないが理由はこうだ。

光輝を放つボックスを覗きながら僕は徐々に真相に近づいた。

過敏であることは必ずしも好むところではないが、僕は僕の厄介な資質だって世の中には捨てがたいものだと思う。

僕が失ったのは人生に対するあまりに誠実な態度から生まれた疲れ切った精神の遺影だった。その身にどのような荷が負わされていようと、人は独自の術で、それがあたかも唯一絶対の良策のような錯覚を自らに供して、曲がりくねった回廊を歩まねばならない。

錯覚を確信させてくれるものが何なのか定義は出来ないが、その人なりの形で遭遇するものごとを僅かにでも愛せたら、基本的な歩みは祝砲ものだと言えよう。そうでない場合のほうが多いが…。

回廊は、自分にとって最初にして最大の悩ましい生物であるこの身をも包み込む、複雑な世界の象徴だ。

それと折り合いをつけるため、葛藤しつつも僕は愛そうとした。でなければ自分自身がいびつであることを思い知らされるばかりで、片時も居座りたくなかったからだ。

 

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