かなたへのあこがれ Longing for the other side3-P1~P3

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 世間の醜聞をよそに、今宵秋沢家では南アルプスの山あいの別荘に家族がそろったことから、水入らずの食事会が開かれた。とはいっても、瑠衣子の友人ふたりが急遽参加することになったのだが……。裕三の両親はすでになく、彼と娘の瑠衣子と俊一と、俊一の両親と、裕三の妹で瑠衣子にとっても俊一にとっても叔母にあたる美術史家の秋沢容子と、その容子の恋人であるリチャードとかいう男を含めた九人の会食であった。

 美術史家は日本の某財団が運営する美術館に役員として在籍していたが、西洋美術史の研究のために欧州を起点とする海外めぐりが多く、いまは英国に住んでいた。したがって、瑠衣子とはどうしても疎遠にならざるをえない生活環境にあった。実家のスキャンダルのさなかだったがたまたま会議に出席するために都内に滞在していた。そのため裕三の誘いに応じたのである。彼女自身は別段世間体など気にすべくもない四十五歳の世事に長けた女で、それが証拠に全く予告もせず、十五は年下の金髪の男を内輪の山ごもりに連れてきていた。

 裕三と瑠衣子は家族のうちではいちばん最後に着いた。

「兄さん久しぶり。少し痩せたんじゃないの」

 玄関脇のホールに裕三が踏み込むと、バーカウンターから立ち上がった容子が裕三に声をかけ、軽くハグをした。容子のハグは裕三の隣に立つ瑠衣子にもおよんだ。陽だまりを運んできたような瑠衣子と周囲のようすを俊一はホールの奥から見守った。

「るーい」甘ったるい呼びかけのあとで容子はつづけた。「赤坂のホテルでおもしろい講演をやるから一緒に聴きにいかない? こちらはリチャード」

容子の紹介した男に瑠衣子は会釈をした。

裕三は伸ばしてきたリチャードの手を軽くにぎった。「お噂はかねがね。あなたも容子と同類ですね」

「リチャード・バランです。ヨーコと研究するのはじつに刺激的です」彼は流暢な日本語を使い、かすかな笑みを作った。

 辺りには香ばしいコーヒーの香りが満ちていた。容子は兄と姪に飲むかと訊ねた。

 裕三は礼を言い、先に部屋に行ってシャワーを使ってくるよと断った。

「わたしも、車で疲れたから少しゆっくりしたいわ。あとでいただく」瑠衣子はそう言ってその場を離れかけたが、叔母の質問を覚えていて逆に訊き返した。「おもしろい講演ってどんなもの?」

「『魂の冒険』って本を近々刊行する友人の講演なのよ。原書は二年前に欧米で出版され、これがなかなか順調な売れ行きらしくて、ついに邦訳本が出るのよ。怪しい宗教か思想の類みたいに思うでしょ?」

 否定しない、というように瑠衣子は肩をすくめてみせた。

 容子は陽気な声で笑い出した。「どうでしょうね」容子はカウンターに戻って白いマグカップを持ち上げた。

「ふーん」瑠衣子は叔母に笑顔を向けて手を振った。「考えとく」

 リチャードがなにやら意味ありげに容子にささやいた。容子は男に苦笑いを返した。

 その瞬間瑠衣子は、叔母の連れてきた男を意識せざるを得ない心境になったのだと俊一は感じた。なにを言ったのだろう。この人はなんなの? それはもしかしたら、自分に無関心な女の気を引くことに長けた男のある種のパフォーマンスなのではないか、と俊一は半ば嫉妬めいた気分で分析した。男の長い睫毛の下には、奥光りのする鋭い眼差しがあった。しっかりした鼻梁とあごの線、エーゲ海沿岸に起源をもつとされるペリシテ風の美貌は、ただそれだけに終わらない癖をものがたり、恋人をエスコートする視線のはしに危険な気配をかもしていた。部外者であっても心ときめくほど悩ましげに映るもので、気づいていながら平然としている容子のようすも俊一は見逃さなかった。

 初対面の男の視線は、叔母の領域を侵す気のない瑠衣子にとっていとわしいのではないか。すべてが俊一の憶測であったとしても、かのミステリー作家クリスティなら、なにか突拍子もない愛憎劇でも描きそうに映る別荘地の環境だったから、俊一は半ば妄想の入り混じった分析をつづけながら瑠衣子と周囲を観察した。

 瑠衣子は彼女らしいやり方で一切を黙殺していた。久々の環境を徘徊することなく読書や刺繍のために自室で過ごしたのだ。

 ところが思いがけず友人が到着したことで彼女のすることは変わらざるを得なかった。日のあるうちから自家のバーにアルコールを注文し、一杯やりはじめた。友人ふたりと俊一が瑠衣子の酒席に最初から加わっていたが、裕三や光子、それに容子が時間差で招かれた。

 大人たちが去ると俊一は瑠衣子と友人を表に誘った。窓越しに眺めてみても、樹林は秋の色に染まって美しかったからだ。

 だが瑠衣子は陽気にケラケラと笑うだけだった。

 そのうち食堂から呼び出しがかかった。

 テーブルには金銀の彩色をした食器コレクションを引き立てる彩り豊かな料理がならんでいた。コールドミートやクラブステーキ、フィッシュフライ。ラディッシュやブロッコリー、アスパラガスなどのサラダ類や各種チーズ、りんごやメロンのパイなどがあった。

 雄太と里奈はほろ酔い加減だったが行儀よく食し、瑠衣子と俊一は無作為につまんでは人目もはばからず乾杯を繰り返した。

 やがて庭先で裕三や俊一の両親が歓談し、容子と男が戯れのキスを始めたとき、瑠衣子はボトルとグラスを手にして屋外へ出た。雄太と里奈、俊一がそれぞれの歩調でゆっくりとついて行った。瑠衣子は植木囲いのへりを通り、蛇行する林への道に足を延ばした。

 俊一は透かさずあとを追ったが雄太と里奈は星空と大地の対峙する眺望に魅了されてこちらの動きに気づかないようすだった。

 好都合だと思った俊一はふたりをその場に残して瑠衣子に付きまとった。水際にたどりついたとき、瑠衣子は桟橋に座った。

 俊一もすでにほろ酔い気分だった。「ねぇねぇ、瑠衣子さん、ボートに乗ってみましょうよ」と言ってみた。「いいわね!」と瑠衣子が立ち上がったとき、期待をしていなかった俊一は素直に戸惑った。

 ひとりであってもふたりであっても、瑠衣子はそのときの自分にとって、いちばん心地よい状態を素直に維持しようとする。

かなたへのあこがれ1-P1~P5

かなたへのあこがれ-2-P1~P3

つづきは近日中に掲載しますね

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