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――花の香の霞める月にあくがれて夢もさだかに見えぬ頃かな――
突然のように藤原定家の歌を瑠衣子が詠じたのは、二階の瑠衣子の部屋で俊一がスマホでニュースサイトを見ているときだった。瑠衣子はミルクを入れた紅茶をシナモンスティックでかき混ぜながら、一方の手でかかげた書物に目を落としていた。
肘掛け椅子でコーヒーを飲みながら暇つぶしをしていた俊一は、棒読みする声に顔をあげ、瑠衣子がぼんやりと窓外に視線をはせて歌をかみしめているようすに見とれた。空は青く広がっていた。
「瑠衣子お嬢様」家政婦の滝田由美子が半開きになった扉の外からノックとともに声をかけたのは、まさに静かな物思いの刹那だった。
瑠衣子が返事をする前に青山雄太が顔を出した。「ルイ、元気そうで良かったよ。下でお父上に挨拶したらそのまま上に、っておっしゃって滝田さんが案内してくれたから」雄太はいささか弁明じみた調子で切り出した。「有給休暇を取ってきたよ」
「わたしもルイのことが心配でユータが連絡くれたから一緒にきちゃった。ごめんね、押しかけて」里奈が雄太の横からにじり出てきて言った」
秋沢裕三はエントランスホールの脇にあるサロンでコーヒーをすすっているはずだ。雄太と里奈の到着を知ったとき、ふだん見ている娘の友人だから、とためらうことなく滝田に瑠衣子のところへ案内するよう指示した。そんなようすが俊一に想像ついた。
「ご覧の通り、家族で息抜きにきただけだから、なにも心配いらないのよ」瑠衣子はおどろいたようすを見せながらも、うれしそうに笑った。「励ましにきてくれたってわけね」
「眺めのいいところね。しばらく過ごしたら元気になれそうね」
「ありがとう。元気はなくしていないけれど感謝する」
「なにか役に立てることがあったら言ってくれ」
雄太と里奈が瑠衣子とことばを交わしたあとで俊一に挨拶をした。俊一は面はゆい気分で笑顔を返した。家政婦がコーヒーかなにかお持ちしましょうと訊ね、雄太と里奈が礼を述べてコーヒーを求めた。滝田が消えると瑠衣子はふたりを自室に招じ入れた。
入室した雄太は窓ににじり寄り、秋の色に染まる眺望を賛美し、里奈と感動を分かち合いながら、季節の話や近くにあるペンションのことを訊ねたりした。今宵の宿のことを考えているようだった。瑠衣子はたまにペンションにあるティールームを利用することがあったため、そこの話をした。当たり障りのない話題で盛り上がっているところへ滝田がコーヒーを持ってきた。彼女は室内のテーブルに置くとすぐに引き下がった。
客が座ってコーヒーをすすり始めると瑠衣子が思いついたようにワインを飲みましょうと言い出した。
「あなた、きょうは運転がないでしょう、ユータ。場合によってはお泊まりしていけるわね、ここに。リナもせっかく有休取ったならゆっくり楽しんでいって」
「え、いいの? ここに?」里奈がうれしそうに笑ったが、すぐにも遠慮して言った。「わたしは近くのペンションでも利用しようかと思っていたの、ホントよ。でもね、空いているかどうかは確かめてこなかった」
「この季節はたいがい満室よ。うちに泊まっていって、父も喜ぶわ。さ、酒宴しましょうよ」
「おぅ、いいね」雄太は遠慮なく声をはずませた。
それから瑠衣子は自室で彼らとワインを飲み始めた。
頃合いをみて雄太が裕三の会社のスキャンダルのことに触れた。
今朝もテレビに出ていたあの写真はいつ、どこで写したものかと問いかけた。瑠衣子は正直に答えたが、あの写真をメディアに提供したのがそのとき写真を撮った主催者側の記録係の人間ではないことは確認済みだと言った。
「あれは写真を撮られている人たちを外側で見ていた人が撮ったようなアングルだ。俺もルイのお父さんと懇意にしている会社の人が外部に出したとは思わないね。とはいえ、関係筋の誰かということはありそうだな。一般人が参加するようなパーティーじゃなかっただろう?」
「そうね。おそらくあの日の参加者全員があの写真を見て憶測しているでしょうね、ユータと同じように」瑠衣子は屈託なく笑った。
「写真をお金にしたのかしら」里奈が苦々しい顔をした。
「そんな人もいるのでしょう」瑠衣子が冷めた調子で応じた。
友人たちが訪ねてきたことで、自分が渦中にいることを実感させられた瑠衣子は、彼らと飲んでいるときから疲れてきているのではないかと俊一は思った。
気ままな動きが妨げられることを瑠衣子は好まない。笑っていたあのときでさえ、どことなく窮屈さを感じていたのかもしれない。

